機会があって英文と格闘していました。和訳するたびに感じるのは、英語の一意的な性格と論理の明晰さです。逆に日本語は表現が多彩で、なんと細やかなことでしょう。例えば「I love you」の日本語訳は「愛してるぜっ」「アンタ、好きよ」「お慕い申し上げます」など、いくらでも思いつきます。
日本語の表現は、文を読んだだけで男女の別・上下関係などが明瞭で、その場の情景までが目に浮かぶようです。そのためか、英語と異なり国語の入試ではアクセントやイントネーションの出題は皆無。わざわざ言挙げしたり、抑揚。パフォーマンス。表情に頼ったりする必要がない表現力があるということでしょう。「日本人は何を考えているか分からず、表情に乏しい」という、国際的な舞台での批判の一因もここにあるようです。
ここで、外国人の視点から日本語を見てみましょう。16世紀にヨーロッパから日本にやって来たイエズス会の宣教師たちに次のような記述があります。「(日本語は)知られている諸言語の中で最も優秀、優美、豊富なものである。(略)我等のラテン語よりも豊富で、思想をよく表現する。(略)相手の人物や事物の階級に応じて高尚、低俗、軽蔑(謙譲の意か。北川注)の言葉を使い分けなければならない」(A.ヴァリニアーノ)とか、「我々が身振り手真似で示すものを、日本人は多く複合語と副詞(助動詞の誤りか。北川注)とで示す」(I.ロドリゲス)と。
表現力が潤沢ならば、身振りや表情に頼る必要もないはずです。
音楽の演奏のときに、必要以上のルバートや身振り・感情表現で厚化粧した演奏家を見るときがあります。これを「心情と個性の発露だ」と擁護する人もいます。はたしてそうでしょうか。奏者の「個性」やパフォーマンスの陰に、偉大な作曲者の顔が隠れてしまっていませんか?確かな表現力があればパフォーマンスまで動員する必要がないはずです。
ところで、グレン・グールドというピアニストは一切の演奏会を拒否しました。聴衆に迎合して喝采を得ることに欺瞞を感じたというのがその理由の一つです。その後、録音という、まさに音だけで勝負をしたのは有名で、彼の態度は今も強い火影を残しています。
グールドの例は極端かもしれませんが、ともすれば道を外れてしまいがちな私たちに大きな問題を突きつけているようです。音楽のジャンルに限らず、一切の虚飾を取り除いて表現の本質に迫りたいと考えるのは私だけでしょうか。いかなる分野であろうと、表現という作法には義務が伴うものですから。
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